どーも、たけGです。
「ゴジラ対ヘドラ」
昭和ゴジラシリーズ随一、いや、ゴジラシリーズ全体通しての異色中の異色作品。
実に久しぶりに見ることが出来ましたが、相変わらず評価に迷う作品でした。
シリーズの中でも賛否両論が1番分かれる作品だとも思います。
個人的に好きか嫌いか問われると、好きとは言い切れない作品でして、かといって嫌いというわけでもない。
この作品を彩るアート性はすごい好きなんですけどね。
途中に挿入される紙芝居的なアニメとか、マルチパネルスクリーンの演出だとか、子供が主役の1人なのに、サイケデリックに彩られた世界観、そこはかとなく漂うエロティシズム&ドラッグのアンダーグラウンドな部分だとか。
ヘドラのデザインも実に異質。
当時の社会問題だった公害による大気や海の汚染をテーマにした作品であり、高度経済成長期の日本が経済の発展の背景に、環境破壊をかえりみず排気や汚水を垂れ流した結果、その廃棄物から生まれ出でたカウンターパンチ的な怪獣であるヘドラ。
ヘドラは文明に溺れた人間たちの行為そのものの具現化であり、まさに天に唾した結果の象徴ともとれる怪獣です。
そこをアートやアンダーグラウンドな部分から切り取って描いたという点では非常に上手く描かれており(ヘドラの異質なデザインもまさにアート的)、当時の社会性と芸術性を巧みに融合した名作とも言えなくはないのですが、一方で如何ともしがたいまとまりの悪さといいますか、体のあちこちが痒いんだけど体のどこが痒いのかわからない気持ち悪さのような部分がこの映画にはありまして。
それこそが、今作におけるゴジラの存在。
ゴジラはヘドラが現れるとどこからともなく現れ、ヘドラに対して敵意を燃やし、執拗に攻撃します。
これが本当に何故?と言えるぐらいの執拗さ。
ヘドラに対し不倶戴天の敵とでも言わんばかりに追い続けるのです。
「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」でキングギドラを追い続けたゴジラ以上の執拗さで。
これが次作「ゴジラ対ガイガン」以降の地球のヒーローとなってしまっているゴジラなら、わからなくもないです。
宇宙怪獣の侵略を察知して怪獣島から出撃、人々からも「ゴジラは我々の切り札」とまで言われるような存在。
それならば地球や人類のためにヘドラを排除しようとするゴジラの姿もありでしょう。
ですが、今作のゴジラにはそこまでのヒーロー性は見られません。(空は飛びますけど)
主人公の1人、ケンちゃんは「ゴジラはスーパーマンだもん」と事あるごとにゴジラをヒーロー視しています。
子供の視点だからとでは納得がつかない、ゴジラの立ち位置のアンバランスさ。
ニュース番組でゴジラとヘドラの被害を伝える際に、「なぜゴジラは現れたのでしょうか」というキャスターの言葉が、この映画を見ている人の心を代弁していると思います。
「わかってないなぁ、ゴジラはヘドラをやっつけに来たに決まってるよ。ね、パパ!」
いや、だからゴジラがヘドラをやっつけに来る意味がわかんないんだよケンちゃん!
ゴジラはご存知の通り、人間が行った核実験から生まれた水爆大怪獣です。
つまりは人間の行いから生み出されたという点で、ヘドラと同じく人間の業が生み出した怪物なわけで。
ですが、劇中そのことについては一言も触れられません。
ケンちゃんが恐らくは学校で書いた作文で、
「原爆、水爆、死の灰は海へ
毒ガス、ヘドロ、みんな海へ捨てる。
ゴジラが見たら怒らないかな。
怒るだろうな」
と書いているのですが、ゴジラが怒るのならその相手は、公害物質を垂れ流した人間であって、その副産物であり同類とも言えるヘドラではないはずなんですよね。
大体にして、原爆、水爆、死の灰から生まれたのがゴジラだよケンちゃん!
そのように、汚染物質を撒き散らかして人々に害を与えるヘドラをやっつけるヒーローとしかゴジラを認識しないケンちゃんに、「ゴジラvs.スペースゴジラ」の三枝未希が被って見えました。
ゴジラだって、放射能という有害物質を撒き散らかしているんだよケンちゃん、と、パパが教えても良さそうなものなのに…
人間の業から生まれた2匹の怪獣、どちらが勝つにせよ、人間たちは自らが生み出したモンスターとどう向き合うべきなのか。
改めて今回、見直してみても、そういったゴジラへの印象が変わらず、なんとも点数つけがたい作品のままでした。
点数つけて順列を決めるような映画でもないのかもしれないですけどね。
そういえば、ラストの「そして、もう1ぴき?」は、2匹目のヘドラ出現を予感させたんですけど、結局その後、2匹目は現れませんでしたね。
「ファイナル・ウォーズ」のアレですか?
エビラと一緒に瞬殺されるような奴は、きっとX星人の作った紛い物でしょう。
コメント
おはようございます。
「ゴジラ対ヘドラ」は昭和ゴジラシリーズの中でも、その描写の陰湿さ、グロテスクさは類を見ませんね(というか、見返してみると昭和ゴジラシリーズのどれもが独特の個性を持っていて、イメージが統一されていない気がしてきました)。
本作の上映当時は環境汚染がピークだったようで、大きな問題になっていたようですね。高度成長期、日本の産業革命時代の頃は空を真っ黒にする煙突の煙が繁栄の証として称賛されていたようですが、後々それが害悪になっていく事は想像がつかなかったのでしょうか。
核の落とし子であるゴジラは、同じように人間の作り出した「毒」から生み出されたヘドラに自分と同じ影を見て悲しいものを感じたかもしれません。でも、地球に生きる者として地球を汚染し破滅に導く者とは戦わなければならない。
この頃のゴジラは人間に距離は近付いてきていても、決して人間の為に戦っていた訳では無いのですよね(でも、次作では少なくとも日本には好意的になってくれるみたいです)。
今にして思えば、この重苦しい雰囲気を吹き飛ばす為に例の悪評高き「ゴジラの飛行」が必要だったのかもしれません。大きな問題に悲観的にならず、前向きに(後ろ向きだけど)進んで行こう。そういうメッセージが込められているのかもしれません。その結果、ゴジラは強敵ヘドラに辛くも勝利しました。
(次へ続きます)
(続き)
田子の浦や四日市の汚染が凄かったようですが、大阪でも淀川の汚染が酷くて一時は魚が住めなかった時期もありました。今では環境の改善が進んでフナやタナゴが戻ってきて、空もいくらか澄んできたように思えますが、今はダイオキシンの影響による異常気象という別の環境問題が出てきているのですよね。
昔に比べれば汚れが見えなくなっただけで、根っこの所は何も変わっていないのかと思うと考えてしまいます。このダイオキシンこそが、映画の最後に出てきた「もう1匹のヘドラ」なのでしょうか。でも、私は悲観的にならず人間の英知を信じて前向きに生きていきたいです。
http://plaza.rakuten.co.jp/achachan
>>A-chanさん
こんばんは。
「ゴジラ対ヘドラ」は監督である坂野義光氏の作家性が色濃く出た作品であり、そのため昭和ゴジラシリーズどころか平成以降のシリーズ含めた中でも非常にアート性の強い異質な作品になってますね。
ただ、その独創的な作品は上層部の意に反して制作されたものであり、反感を買ってしまった坂野氏は以降、映画監督をしなくなった(出来なくなったとも)のだとか。
まぁ一説によれば、上層部の反感を買ってしまったのはその独創的な世界観よりも、プロデューサーが最後まで反対していたゴジラに空を飛ばせることを強行してしまったからだとも言われてますが。
今でも賛否両論のある(否が多いかな)空飛ぶゴジラですが、これも独創性の高い坂野監督あってのものだったのでしょう。
ゴジラ映画から追放されたような形の坂野監督ですが、そんな彼の企画が後にハリウッド版の「GODZILLA」に繋がって、製作陣に名前を連ねることになるのだから世の中何が起こるかわからない。
2匹目のヘドラ、「ゴジラ対ヘドラ」の続編についても坂野監督は真剣に考えていたようで、最近まで企画が進んでいたようなのですが、残念ながら坂野監督は還らぬ人となってしまいました…
無機質で、恐怖と嫌悪感が同居する中に、コミカルな一面さえも持っていた独特すぎる怪獣ヘドラの新たな姿を見てみたかったのですが、「ゴジラ対ヘドラ」で人生を左右することになった監督と一緒に、ヘドラも天へと旅立ったのかもしれませんね。
ちなみに「ファイナルウォーズ」のアレは2匹目とは認めてないのですけどね(笑)